世の中はどう考えても平等じゃないけど唯一平等なものもある

サステイナブル
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今回は「世の中は不平等にできているけど、平等なものもある」話をシェアしようと思います。



「生まれた環境」は平等じゃない

世の中って「生まれた時の環境」は平等じゃないんですね。
たとえば、「経済面」や「権利」などは平等じゃないわけです。

もし「裕福な家庭」に生まれれば、スマホを買ったり、車に乗ったり、飛行機で海外に行くことも簡単なわけですが、一方で、「お金がない」と「欲しいものを買う」みたいな「選択肢がない」と。


「権利」でいえば「同性婚」も国によって、できる場所できない場所があったりするじゃないですか。


つまり、生まれた環境、生まれ持ったモノって人は選ぶことができなくて、全員違う遺伝子とか環境で育つから「全員違うこと」を前提として世の中があるわけです。



平等さはみんな同じものをもらえること

で、「平等さ」と「公平さ」をごっちゃにしちゃうとややこしくなるんですね。

というのも、先ほど「平等じゃない」と説明した「経済面」や「権利」っていうのは、実は政策とかで「平等」にすることができるわけです。

たとえば、「選挙権」なんかは、「〇〇歳以上の人『全員』に与えられた権利」じゃないですか。
「同性婚」も「性別に関係なく『全員』が結婚できる権利」であると。

つまり、平等さっていうのは「全員」に同じものをもらってる状態なんですね。



平等さではなく公平さを求めてる例

じゃあ、世の中平等じゃないって嘆く人がいってるのはどういうことかというと、「世の中が公平じゃない」といってるんですね。

たとえば、車椅子の人が移動するのに「階段」や「段差」は大変じゃないですか。

だから「坂道」にすることや、階段を上がれる機械を導入することで「公平さ」を重視してるわけです。

経済面においても「全員同じ貯金額にしろ!」なんてのは無理なじゃないですか。

だから、「じゃあ、ベーシックインカム制度を導入して、全員にお金をあげよう」とか「学費や医療費を全部無償化しよう」みたいな「平等さ」を通して「公平」にすると。

つまり、「公平さ」って、「個人が生まれたときにある環境の差をできるだけなくす」感じなんですね。



考えることに目を向けると生きやすい

で、世の中って「環境」は平等じゃないことがほとんどなんですけど、「考えること」は平等なんですね。

たとえば、「身体の特徴」は1人1人違うじゃないですか。
バスケをするときでも、身長が高い人はダンクができるけど、低い人はできない、と。

つまり、身体的な特徴っていうのは、生まれ持ったものがほとんどなので、そこが「平等」になることはないわけです。


で、このときに「もっと背が高ければ…」と嘆くより、「背が低い特徴を活かしたプレー」をした方が「生きやすい」わけです。

「背が低いからこそ、細かい動きができる」みたいに「自分に合った動きを考えながらプレー」した方が生きる負荷がかからないわけです。


もし「身体の特徴」を平等にするとしたら、クローン人間を作るしかないですからね。


考えることは負荷が少ない

ここまで、「身体的な特徴」「経済面」「権利」など「生まれ持ったモノ」「生まれてきた環境」は平等じゃないけど、考えることで「生きやすさ」を手に入れれる、という話をしました。

で、生きる負荷という視点で「平等」をみたときに、「社会的な平等さ」を求めるのって「他者を変えること」で、非常に時間も体力も使うんですね。

一方、人がそれぞれが持ってる「考える」っていう行為は「自分でできること」で今すぐできて自分でする行動なので、負荷が少ないんですよ。



誤解しないでほしいですが、もちろん差別はいけないですし、平等さも大切です。そして、「社会的な平等さ」を捨てろ!といってるわけじゃありません。
社会的な平等が実現できるならその方がいいでしょう。


わたしがいいたいのは、みんな「遺伝子」「関わってきた人」「食べてきたもの」など違うから、個人と個人を比べたら「もともと世の中は平等じゃない」わけです。

で、「みんな違う」っていう前提を受け入れられずに、「平等じゃない」部分だけをみると嫌な気持ちになっちゃうわけです。

「もっと身体能力が高ければ…」「もっと裕福な家庭に生まれれば…」と、「今持っているもの」ではなく「ないもの、持ってないもの」を「妄想」してしまうときついじゃないですか。

「ないもの」を妄想して、それが手に入ればいいですが、そんなことはなくって。
「あー、もっとお金があればいいのになぁ。お!お金がわいてきた!」なんてことがあればいいですが、実際にはありえない、と。


ようするに、「みんな違う」というのを受け入れずにいると、「人生無理ゲー」と感じてしまうわけですね。



平等である「考えること」に目を向ける方法

繰り返しますが、「社会的な平等」が今すぐ可能なのであれば、やればいいと思います。

ですが、今話してるのは、「社会がどうすべきか?」ではなくて、「『個人が、今』どう生きやすくなるか?」という話なんですね。

で、もし「社会的な平等さ」を求めるんだとすれば、時間と体力がかかるから、長期的な視点が必要になる、ということです。


話を戻しますが、「考えること」は自分が今できることで、スポーツの例のように考え方次第で生きやすさを見出すことができるわけです。

「生まれてきた環境」「生まれ持ったモノは平等じゃないし、変えづらい部分がありますが、個人でみたときに「平等」なものがあって、それが「考えること」である、と。


ここでいう「考える」とは、勉強ができるとかではなくて、「なにを思うか」であり、「どう受けとるか」という能力、ということであり、それは「平等」なんですね。

身体能力などの「生まれ持ったもの」は、特に変えずらいけど、「考えること」、すなわち「生まれ持ったものを受け入れて「どうするか」は、平等です。


つまり、「考えること」ことに焦点をあてることができれば、「人生無理ゲー」から少しは解放されます。



まとめ

今回は「環境は平等じゃないことが多い」けど、「考えること」は平等、という話をしました。

不幸に感じるときって「幸せになるには〇〇が必要だ!」と思い込んでることが多いんですよね。

(もちろん平等さや公平さは重要ではありますよ。)

物理的なモノで解決できることもたしかにあるんですが、「自分に本当に必要なモノ」を理解できれば、「平等さ」や「公平さ」に嘆かずに、自分が幸せになる環境を作れるかもです。

ではまた〜

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