生きる意味を考えるには、死ぬ、生まれる、生きてるを考えないといけない話

生きやすくなるかも
Photo by James Wheeler from Pexels

今回は、「1つのことをじっくり見てしまうと、生きづらくなる」話をしようと思います。

 

1つのことをじっくりみると、理解しずらくなる

 

ヒトは1つのことをじっくり見るより、全体をみることで物事を理解しやすいものなんですね。

 

たとえば、「ゲシュタルト崩壊」がいい例です。

 

では、「お」という文字をたくさん見ることにしてみましょう。

 

おおおおおおおおお
おおおおおおおおお
おおおおおおおおお
おおおおおおおおお
おおおおおおおおお

 

だんだん「お」が変に見えてきませんか?

 

普段はなにも思わないただの「お」という文字なのに、
「お」だけしかみないと、変に見えてしまうわけです。

 

でも、

  • 「おかし」
  • 「おなか」
  • 「おばけ」

としてみたとすれば、それほど違和感は感じないはずです。(「お」をたくさんみたあとなので、少し違和感があるかもしれませんが。)

 

1つのことに注目してしまうと、1つのことも認識しずらくなる

 

つまり、「お」自体に特に意味はないのですが、

「『お』という1つの文字」に注目してしまうと、

「あれ?この文字なんだ?みたことない気がするぞ?」
「なんかこの丸になってる部分が気になるなぁ」

とか考えてしまうわけです。

 

 

ようするに、「お」を単語の一つや、文章の1つ、すなわち全体としての「お」としてみたときは、「お」が「お」というコトバとして機能する。

 

一方で、「『お』には意味がある!」と思って「お」に注目してしまうと、「お」という文字を認識しづらくなって、いわゆる「わけわかんない」状態になってしまうわけです。

 

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全体を見たほうが、動きやすくなる

 

上手に運転するには「少し先を見て運転する」こと

 

 

この「1つ」より「全体」を見たほうがいい「やりやすくなる」例として、「車の運転」があります。

 

「車の運転」の上手さは、「スムーズさ」にあります。

「お前運転が下手だな」

といわれるヒトは、

  • 「急ブレーキ」を踏んでしまったり、
  • 「急に曲がったり」

してしまうんですね。

 

で、なぜこういうことが起きるかというと、「近くばかり」見ているからなんです。

 

急ブレーキは、少し遠くをみることで避けれる

 

たとえば、

「信号で急ブレーキを踏んでしまう」

というクセがあったとします。

 

この「信号で急ブレーキ」をやめるためには、
「少し遠く」をみることがコツになります。

 

「少し遠く」を見ながら運転をすれば、

「あ、3つ先の信号が赤に変わったな。
てことは、2つ先の信号も赤に変わるから、スピードはあげない方がいいな。」

と気づけるわけです。

 

そして、「少し遠くを見た」後に、「前の車のブレーキランプがつく」、すなわち、1つのことに注目すること、をチラチラチェックし、それに合わせて自分もブレーキを踏むことで、「信号で急ブレーキ」をやめることができるわけです。

 

自転車を乗る時は、向かう先を見ないと迷子になる

 

これは、「車の運転」だけでなく、「自転車」でも同じです。

 

自転車に乗る時は、「遠くをみること」と「近くを見ること」が大切です。

 

  • 「向かう先」ばかり見てて、「道のデコボコ」に気づかずコケてはいけませんし、
  • 「目の前の地面」ばかり見て、「目的と違う方向を進んでいた」、というのでは、元も子もありませんし、
  • 「信号が赤になっていること」に気づかないのは危険になります。

 

 

つまり、「向かう方向」、すなわち「全体」をみて運転する中で、「目の前の地面」を見ること、すなわち「1つのことに注目すること」、が重要になるわけです。

 

生きやすさとは、全体を見れること

 

で、この「『全体』をみること」と「『1つ』のことを見ること」が、「生きやすさ」に関わるわけです。

 

たとえば、

「生きる意味ってなんだ?」

と、悩んでいるとしましょう。

 

 

  • 「どうせ死んでしまうのに、なんでわざわざ苦しい思いをして生きなければいけないんだ」
  • 「どうせ死んでしまうのに、なんで一生懸命働かなければいけないんだ」

と悩んでいるわけです。

 

 

つまり、「死んでしまう」、「死ぬ」という「1つのこと」に注目してしまっていて、
「全体」を見失い、「向かう方向がわからない」状態にいるわけです。

 

「死ぬ」ためには、「生まれ」なければいけない

 

では、このとき、どうすればいいのか?となります。

 

それは、「『死ぬ』という考え方が存在するために必要なもの」を考えることで全体をみることができる、わけです。

 

人生で唯一わかってることは「ヒトは死ぬ」ということですが、
「死ぬ」という考え方が存在するためには、「生まれる」という考え方が必要になります。

 

つまり、「ヒトはいつ生まれるのか?」ということです。

 

 

必ずしも世の中に誕生した瞬間が生まれる瞬間ではない

 

「ヒトはいつ生まれるのか?」

 

「誕生日」がヒトが生まれる瞬間でしょうか?
でも、「お母さんのお腹にいるとき」に、すでに「ヒトが誕生している」という意見もあるかもしれません。

 

もしかしたら、「いやいや、ヒトが誕生するには、先祖が必要だから、紀元前3000年前に人類が文明を作っていたわけだから、ヒトが生まれたのは、ぼくらが生まれるずっと前だよ」
という意見があるかもしれません。

 

そうすと、「いやいや、もともと地球にはヒトはいなくて、植物や微生物がいたんだから、『生まれる』というのは、そういう『地球初の植物や微生物』の誕生が『ヒトが生まれた瞬間』だよ」

という意見もあるかもしれません。

 

と、「死ぬ」という考え方を理解するために、「生まれる」ことについて少し話しましたが、
ようするに、「ヒトはいつか死ぬ」という、「1つのこと」を話すには、「生まれる」ことを理解して、まず全体をみないと、「ゲシュタルト崩壊」と同じように、「わけわかんない」ことになってしまうわけです。

 

 

「ヒトが生きる意味」を考えるには、「死ぬ」「生まれる」「生きてる」のような全体を考える必要がある

 

 

「ヒトが生きる意味はなんなんだ?」という質問に戻りますが、
この「生きる意味」、すなわち「生きる方向」を見つけるためには、「そもそも『死ぬ』ってなに?『死ぬ』って、心臓が止まったら死ぬってこと?魂はあるの?ないの?輪廻とかは?」と、「死ぬ」ことの理解する必要がある、と。

 

 

そして、「『生まれる』ってどゆこと?この世に出てきたら『生まれる』ってこと?」と、「生まれる」ことの理解が必要になります。

 

それだけでなく、「生きている」ってどういうことか?の理解も必要になります。

 

 

つまり、

「ヒトはなんのために生きているんだ?」

を言い換えると、

「ヒトはいつ生まれるのか?
いつ死ぬのか?
そして、生きてるってどの状態のことをいうのか?」

のように「全体」を把握して、それから「生きること」を考えたり、「死ぬこと」を考える必要がある、と。

 

 

ようするに、「終わり」が存在するには、「始まり」がないと、「終わり」が存在しない、わけで、

「ヒトは(いつか心臓や脳が止まって、話すことがなくなって)死ぬ」という「1つ(の一般的に考えられている”事実”)だけ」を考えると、「人生のゲシュタルト崩壊」が起きちゃう、ということです。

 

まとめ

 

もしかしたら、「『お』という1つの文字」のように、「死ぬ」ことに意味はないのかもしれません。

 

「死ぬ」ことが、「『お』という1つの文字」のように、特に意味がないことだったとしたら、
「全体」を理解する必要があるかもしれません。

 

つまり、「お」を口に出して「おー」といっても意味がないけど、
「なぞなぞを理解したとき」、という「全体」の中で「おー」といえば、「なにかに納得したときにいう『お』」に変わるわけです。

 

ようするに、「生きづらさ」があるときは、1つのことに注目しすぎている可能性があります。
「人生のゲシュタルト崩壊」を避けるためには、「死ぬ」ことだけを考えるのではなく、「生まれるとは?」「生きるとは?」といった、全体を考える必要があるわけです。

 

全体をみることができれば、「どっちに向かおうかな」というのが見えてくるはずです。

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