思いが伝わっているのか?を基準に英語に触れると楽しさを取り戻せる話

さからわない英語学習


今回は「思いが伝わっているのか?を基準に英語に触れると楽しさを取り戻せる話」をシェアしようと思います。



伝える方法としての言語

少し前に、タレントの出川哲郎さんが海外ロケで「出川イングリッシュ」が有名になりましたよね。

で、言語の本質って結局「出川イングリッシュ」のように「伝えること」にあるんですよね。


たとえば、交渉術の本とか人を動かすためにはこういう言い方をしろ、みたいな本がありますよね。

それって結局、相手に「こうするとお互いが得しますよ」のように、伝えたいことがあって成立することなわけです。

恋文なんかは「あなたのことが好きです」ってことをいろんな言い方をして伝えようとしてるわけですよね。

「あなたは美しい」「あなたを思うと胸が苦しくなる」などは、「好き」という感情を伝えるための「表現方法の1つ」でしかなくって。

別に言葉に頼らなくても、踊って愛を伝えても、たくさん贈り物をして思いを伝えてもいいわけです。



つまり、英語に限らず母語でも、どれだけ話し方の本を読んだり、コミュニケーションについて学んだりしても、結局、「伝えたいこと」があって、それを表現するための方法として言語があるわけです。

なので、どの言葉遣いをするか、どんな単語を選ぶのか、というのは「伝えるための手段」でしかないんですよね。



ブロークンでもいい場合

で、「英語はブロークンじゃダメ」という人もいるんですが、これも結局「伝えたいことが伝えられてるか」というところに帰ってくることになるんですよね。

最終的には、「自分が英語を使って伝えたいことを伝えてるか」と「話し相手と楽しんでいるか」が重要で。



というのも、英語を話している人と「ブロークンじゃダメ!」といってくる人の関係は、いうなれば、プレーヤーと野次馬の関係でしかないんですね。

話している人はプレーヤーとして実際に試合に出てるわけですが、「下手くそ!」と言ってくる人は観客で、なんのリスクもなくただ野次を飛ばして眺めてるだけにすぎないわけです。

結局プレーするのは選手は、試合までに調整をして試合に出ますが、野次は何も生みませんからね。


それよりも、仮にそれが周りから観たら変なフォームであってもいいと。すなわち、単語だけであっても、下手くそな発音だったとしても構わないんです。

試合に出てる自分と相手が楽しくプレーできてればそれでオッケーなわけです。



つまるところ、本来言語を話すのに、周りが自分の英語をどう思うか、は重要ではないんですよね。



人によってオッケーの範囲が違う

じゃあ、もし話し相手が自分のことを否定してきたらどうすればいいのかというと、距離をおけばいいんです。

これも英語ではなく、母語で考えるといいんですが、言語が英語になったからといって、自分の普段の振る舞いを変える必要は別にないわけです。



たとえば、賛否両論が別れる例として、「タメ口」が挙げられます。

日本で生まれ育った人でも、「タメ口」に対する反応は人それぞれですよね。「場をわきまえろ!」という人や「親しみやすくてむしろ嬉しい」なんて人もいます。

それはその人が生まれ育った環境によって感じ方が違うわけですよね。



で、日本語を話していて、「言葉遣いがなってない!」とか「あなたの口にききかたが嫌い!」とか言ってくる人がいたら、「めんどくさ」って思いますよね(笑)

それと同じで、そういう人とは、自分の言葉遣いが悪いとか言語うんぬんの前に、人が合わない、性格が合わない状態なわけです。

言葉遣いにうるさいのは別に悪いことではないのですが、言葉遣いにうるさい人がいるように、言葉使いを気にしない人もいて、どっちが正しいということはないわけです。



もちろん人によりますが、母語でも親友は一人しかいない、という人がいるように、本当に心が通じ合える、一緒にいて気が楽な人はそんなに出会えないものだったりします。

会話を楽しもうと、楽しんでプレーをしようとしてるのに、やたら暴言を吐いてくる人がいたらいやじゃないですか。

なので、好きなように勉強して、自分なりのコミュニケーションをとって、合う人に出会うのを待てばいいんです。

それは、母語でも、違う言語になったとしても変わらないと。
自分が納得しないで嫌々やってることはいつか嫌気がさしてやめてしまうものですからね。



失敗がキャラとして受け入れられる例

で、失敗に対して悪いイメージを持っている人もいるかもしれませんが、失敗って必ずしも悪いものではないんですね。

というのも、多くの場合、失敗や苦手なものはキャラや個性として捉えられるからです。



たとえば、より適切な日本語なら「小麦粉を入れていきます」という所を「謎の白い粉を入れていきます」っていったとします。

これは実際に、テレビでタレントさんがナレーションで言って、観てる人を笑わせていた例ですが、日本語的には合ってるけど、おかしな言い方ですよね。

でも、その人はわざとやってるわけでもなく、真剣にやっているので、別に怒られるわけでもなく、むしろ周りを笑顔にすることで褒められると。

それは、「あの人はああいう言い方するんだよなぁ」と認識されていて、いわば「キャラ」として確立されているわけです。



他の例でいえば、ある有名な俳優さんが英語のインタビューを受けていました。

で、伝えたいことを表現するための語彙がない時は、「バーン」「ドーン」みたいな効果音を自分でいって、ボディランゲージと一緒に説明してたんですね。

すると、その俳優さんのファンは、だんだん「その人はそういうコミュニケーションの取り方をする人だ」と認知し、わかりづらかったとしても別にイライラせずに、楽しくそのインタビューを観ているわけです。



つまり、わざとじゃない失敗やクセなんかは、「キャラ」として認知されていきやすいわけです。

「あの人天然だよね」「あの人よくいい間違えするよね」「あの人って滑舌悪いよね」といじったりするのは、全く同じことです。



言葉遣いではなく、キャラの許容もある


で、先ほど説明したように、結局は人と人が接してるだけで、相手の行動を許容できるか、できないかなんですよね。

「天然な人はあざといから嫌い」という人がいるのも事実ですが、不思議な発言を楽しむ人もいますよね。

お笑い芸人さんが「チーッス」って言ったとして、「チャラいから嫌だ」という人もいれば「明るくて好き」という人もいますよね。


他には、以前に『英語ができる基準』という話で、ネイティブだからといって言語を完璧に使いこなせてる人はいない、という話をしました。

で、仮に言葉に精通してるからといって日常から難解な言葉を話したら、それはそれで言語ができるというより、ただの変人に聞こえますよね。

「なんでこの人難しい言葉使って話すんだ?」みたいな(笑)



つまり、人によって変な話し方や間違いをして、悪く映る場合があるもの確かですが、必ずしも悪く映るわけではなく、人によってはキャラとして受け入れてくれたり、環境によってはオッケーとしてくれる場合があると。

そして、受け入れてくれる人と一緒にいれば楽しく過ごしやすくなるといえます。



環境のオッケーラインに関して

ここまで、言語は伝えるための手段の1つで、言語以前に人として合うかがある、と説明しました。


で、ここまでは対人の話だったんですが、もし会社で働くという選択をした場合には、「会社という環境がオッケーとするライン」に合わせるか、合わせないか、という問題が出てきます。

で、結論からいうと、自分にとって負荷がかからなければ合わせればよくて、そうでなければ合わせなくてすむ環境を選べばいいんですね。



これも母語で考えるとわかりやすいですが、「敬語が苦手な人」っていますよね。

そういう人の中でも「敬語を話すのが苦痛じゃない人」と「敬語を話すのが苦痛な人」がいるんですね。

で、前者の場合、言葉遣いが厳しい環境に行っても適応しやすいわけですが、後者の人は環境に合わせること自体がそもそも向いてないわけです。



たとえば、会社で会話をするのに「ウェイ」と言ってもいい会社があったとしましょうか。

そうすると、この会社では「ウェイ」という単語を知っていれば、「了解です」「かしこまりました」「承りました」など使わなくてすむでしょう。

でも、「君社会人なんだから言葉遣いをなおしなさない!」という会社で「ウェイ」なんていったら、それはもう怒られますよね。



なので、会社に雇われていて、言葉遣いのルールがあった場合、上司に「もう少し言葉の勉強を…」と言われた時に、イラっとするかどうかが一つの線引きになったり。

「そういうもんだよね。会社で働くには言葉遣いを丁寧にしなくちゃいけないよね」と納得できる人は、丁寧な言葉を学ぶのが苦じゃないと言えます。

しかし、「なんで言葉遣いとかいちいち気にしなきゃいけないんだよ」と思う場合だったら、そもそも日本のコールセンターのような「丁寧な言葉遣いで働く」という環境そのものが向いてなかったり。

逆に、このタイプの人は、言葉遣いという形式重視よりも、クリエイティブなこと重視がだったりするんですよね。



でも、この時「絶対に環境に合わせにいかないと」と考えてしまうと、英語に限らず、何を学ぶにしても苦痛に感じやすくなります。

まぁ、もちろん「はちゃめちゃな言葉遣い」だと仕事が限られるのは日本でも同じですが、「なんで言葉の勉強なんてわざわざしなくちゃいけないんだ」と思うなら会社をやめる、もしくはそれが許される環境を選ぶ、といった選択肢もあるわけです。



ようするに、どっちが正しいか、とかはなくて、その環境で大切にされる価値観が違うだけで、なおかつ、自分がどこまでをオッケーとするかなんですよね。

「絶対にこの分野で仕事をしたい!」というのがあれば、きっと「言葉遣い」よりも大切に思える価値観があって、言葉遣いにそこまで苦痛に感じなかったりする一方で、「言葉遣いが壁になる」場合は、そもそもその環境は、自分が生きやすいと感じる環境じゃなかったりすると。

つまり、言語の問題ではなく、自分が持ってる性質と環境の問題だったり。



まとめ

今回は、「言語は伝えたいことを伝えるための手段の1つで、言語以前に人として合う合わないがある」という話をしました。



「言葉遣いを丁寧に!」というビシバシスタイルが合う人もいるかもしれませんが、「言葉遣いなんて適当でいいよ〜」という人もいると。

なので、その人が必要な伝えるための言語を追求すればいいし、もっというと自分にあった環境を選択していけるどんどん楽になるかなと。


逆に、「あ、もっと自分が思うようにコミュニケーションしていいんだ」とわかれば、楽しく勉強できるようになったり。


では、今日はここまで〜。

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