なりたいものになろうとしなくなると楽になる話

生きやすくなるかも
イェーイ

 

今回は、なりたいものになろうとしなくなると楽になる、という話です。

 

なにかになろうとするのは不自然流れ

 

「なりたいものになろうとすること」ってすごく不自然な行動なんですね。

 

 

たとえば、ヒトがネコになろうとした場合、
どれだけがんばってもネコになることはできないじゃないですか。

 

 

  • 「ニャー」と言ったり、
  • 「ゴロゴロ」したり、
  • 猫じゃらしで遊んだりしても、

「ネコに似たヒト」にしかなれなくて。

 

ネコでーす

 

これは、犬がネコになろうとしてても同じことがいえますよね。

どれだけ犬がネコの行動を真似したとしても、
「ネコに似た犬」にしかなれないと。

 

勝手になにかになっているのが自然な流れ

 

じゃあ、なんで「なりたいものになろうとする」ことが不自然かというと、
順番的には、「やりたいことをやってたら、勝手に他人がそう呼び始めた」って感じなんですね。

 

 

先ほどのネコの例でいうなら、
「ネコ」は「ネコをしようとしてネコをやってるわけではない」んですね。

 

 

すなわち、

  • 「ニャー」と言ったり、
  • 「ゴロゴロ」してたりしたら、
ヒトが勝手に「お前はネコだ」と言い出しただけ

なんです。

 

カテゴリーとしてのネコ

 

その「ネコというカテゴリー」は「後からついてきたもの」であって、
もともとなかったもの。

 

ネコの視点からすると…

 

たとえば、ポチという名前の生き物がいたとします。

ポチは生きたいように生きていた。

自分が「ニャーニャー」言って、「ゴロゴロ」していた。
ある日、ポチは他の生き物から、「ネコ」と呼ばれていることに気づきます。

 

ポチからすると、

「なんか自分がしたいことをやってたら、勝手に「ネコ」と呼ばれ出したんやけど…」

みたいな感じなんですね。

 

ネコの視点

つまり、なろうとしてなっている、というより、『したいことしてたら周りが他の呼び方をし始め』て、その呼び方が「職業だったり、肩書きだったりする」わけですね。

 

 

ようするに、本質的には『自分は自分しかできない』わけです。

 

なろうとしても限界がある

 

「自分は自分しかできない」というのは、コピーがダメだ!とかそういうことではなくて、
「なりたいものになろうとすることには限界がある」という話なんですね。

 

たとえば、犬がネコになれないのは、
容姿的にも、遺伝子的にも、過去の環境も、「ネコと異なるから」ですよね。

 

もちろん、容姿をネコに寄せることや、生まれた時からネコに育てられる、ということも可能でしょうが、結局は「ネコっぽい犬」でしかない。

 

 

先ほど説明したように、ヒトが勝手に

  • 「ネコとは、ニャーと鳴く」
  • 「犬は、ワンと鳴く」
  • 「鳥は、飛ぶ」

みたいに区別しやすくするために分けているから、という見方もできますが、

 

 

そういう「ネコ」とか「犬」とかを抜きにして、ネコを1匹1匹みたとしても、
全く同じネコっていないんですよね。

 

 

どこか見た目は違うし、微秒に声も違うと。
遺伝子単位で見れば、やっぱりどこかが違うと。

 

憧れの人にはやっぱりなれない

 

ヒトで考えてみると、自分の憧れの有名人やスポーツ選手がいたとします。

 

その憧れの人の容姿や、仕草を完璧に真似たとしても、
「その有名人に似た自分」でしかなれないわけです。

 

 

なぜなら、生まれてきた環境はその人と同じではないし、
その人の思考と自分の思考が全く同じということはあり得ないわけです。

 

もし同じ思考をしていて、同じ容姿だったとしたら、
もうそれは「自分」ではなく、その「憧れの人そのもの」ですよね。

 

 

仮に同じ出来事を経験したとしても、「同じ感性で同じことを考えている」なんて証明のしようがないんですね。

 

だって、その「憧れの人」ですら、無意識に考えてることは把握できないから。
だから、「他の人」が他の人に”なりきる”というのは、ある程度可能かもしれませんが、
どうしても限界がある、わけです。

 

 

ようするに、どれだけ他のものになろうとしても、「自分をやめることはできない」と。

 

てなると、「なりたいものになろう」としても、最終的には「他の何者でもない自分」としてしか認識されないわけです。

 

なろうとするとギャップに苦しみやすくなる

 

今説明したように、どれだけ「なりたいものになろうとした」としても、

結局「自分は自分しかできない」わけです。

 

 

てなると、「誰かになろう」としたり、「なりたいものになろう」としたりすると、
『イメージや理想像』と『自分が見たり感じたりする現実』にギャップができてしまうと。

 

 

こうなると、「思い通りにいかないモヤモヤ」が生まれてしまうわけです

いわゆる

「なんでうまくいかないんだ!」
「なんで自分はこんなんなんだ!」

っていう感情ですね。

 

自分のやりたいように生きてみるというやり方

でも、逆に「なりたいものになろう」としない、
すなわち「理想像」をつくって行動するのではなく、
ネコや犬や鳥のように生きてみるのもありかな、と。

 

 

つまり、「なりたいものなろう」としても、「自分は自分しかできない」。

だから、「自分がしたいことをする」。

 

 

自分がしたいことをしていたら、周りが自分のことを

  • 「ネコ」
  • 「犬」
  • 「鳥」

のように、別の呼び方をされ始める。

 

 

でも、自分からすると、「自分がしたいことをするだけ」。
お好きなように呼んでください、と感じ

 

そうやって、「自分がしたいこと」をしたり、「自分がやりたいこと」に目を向けていたら、
周りからどう呼ばれるか?という”しばり”から離れやすくなるかもなんですね。

 

まとめ

 

今回は、

無理して「なにかになろう」としなくても、
「自分」というものには『すでになっている』

という話でした。

 

 

なので、焦って「どう呼ばれる」かを基準に動かずに、
むしろ「したいこと」をしてたら、いつの間にか思い描いている方向に進んでることがあるものなので、

 

「なりたいものになれない」苦しさがある時は、

一度「やりたいことをやってみる」というのもアリかもしれません。

コメント

タイトルとURLをコピーしました