今回は、「すべき」から離れて「したい」に注目すると人生が楽になることについてシェアします。
「すべき」というのは、他人のルールでしかない
そもそも「〇〇すべき」というコトバは自分の意志じゃなくて、誰かが作ったルールでしかないんですね。
いわゆる、
「普通〇〇だよね。だから〇〇すべき」
「普通〇〇だから、〇〇しなさい」
というのは、他人が作ったルールでしかない、ということです。
たとえば、自分の部屋にアメリカ出身の人を呼んだとしましょうか。
で、部屋に入る時に、靴を履いたまま入ってきたら、「え?ちょっと待って!靴脱いで!」ってなりますよね。
日本では、「家で靴を脱ぐ」というのは”一般的”ですが、日本以外のアメリカやヨーロッパ、南米では「家では靴を履いたまま」というのが”一般的”だったりします。
つまり、「家では靴を脱ぐべき」と「家では靴を履くべき」があるわけです。
しかし、日本でもアメリカでも「家の中で靴を脱がなければならない」「家の中で靴を履かなければならない」みたいな、ルールや法律があるわけでもないのに、「その人次第」で「〇〇すべき」が変わるわけです。
ようするに、「他人の数だけ、〇〇すべきがある」といえるわけです。
これは自分視点での言い方になりますが、周りの人、つまり、自分の友達や知り合いからすれば、「自分の〇〇すべき」というのは、「他人のルール」でしかないわけです。
すなわち、「〇〇すべき」を実際にやるか、自分に合う合わない、というのは自分で決めることになりますが、「〇〇すべき」は他人が作ったルールでしかない、と。
他人のルールが、自分に当てはまるわけではない例
この「〇〇すべき」は、同じ国の出身でも全然違うんですね。
「靴を脱ぐ」例は、「国が違うから」という理由になってしまいそうですが、同じ日本出身だったとしても、「〇〇すべき」は人によって異なります。
よく友達と「ケチャップ派」「マヨネーズ派」「ソース派」「しょうゆ派」などで言い合うことってありますよね(笑)
いわゆる、この「〇〇派」って、「この料理には、〇〇をつけるべき」と言い換えることができます。
でも、「味覚」なんて、人それぞれなので、「これが正しい!」なんて絶対的なものはないわけです。
それぞれの人が、自分にあった調味料で楽しめばいいわけです。
つまり、「〇〇が絶対に合う!」=「〇〇すべき」というのは、「自分の基準が絶対に正しい!自分の感覚が一般的(みんな)と同じなんだ!」という意地でしかなかったりするわけですね。
他人のルールを普通と思うと辛くなりやすい
ここまで「〇〇すべき」は、他人が作ったルール、
- 国が違えば、外見や服装、行動までわかりやすく違う。
- 同じ国出身でも、「ケチャップ派」「マヨネーズ派」みたいに、自分にあったものは人それぞれ違う。
という説明をしてきました。
自分の「普通」は、他人にとって「フツウ」に見える。他人の「普通」は、自分にとって「フツウ」に見える、と。
で、自分に合ったものは人それぞれ違うを理解していればいいですが、それを「全員ケチャップを使うべきだ!」「全員マヨネーズを使うべきだ!」のように他人のルールを絶対的な「普通」だと思ってしまうと、「この料理、全然おいしくない…」となりやすなってしまいます。
つまり、生き方に関しても同じで、他人が決めた「〇〇すべき」は「その人に合った生き方」であって、「自分に合うかどうか」はまた別の話なわけです。
「違い」ではなく、「したい」に注目する
なので、「〇〇すべき」から離れて、自分が「したい」と思うことをしてみると、自分に合った生き方が見つけやすくなるわけです。
同じ国出身でも、同じ人はいない。
考え方が似ていても、ほんとうに全く同じなんてありえない、と。
つまり、絶対的な「〇〇すべき」というものはないわけです。
そして、その「〇〇すべき」に良し悪しはない、と。
もちろん、法律を守るとかは大切ですが、一度自分の中にある他人が作った「〇〇すべき」から離れて、自分が「したい」と思うことをしてみると、自分に合った生き方が見つかるかもしれません。
それは、
- 「大学4年になったら就活すべき」に対して、「卒業してから仕事を探す」「フリーランスになる」
- 「入社したら3年は働くべき」に対して、「わたしは合わなかったらすぐやめる」
- 「いい歳してそんなことするな」に対して、「自分が楽しいと思うことをする」
かもしれません。
まとめ
「〇〇すべき」は他人が作ったルールであり、「その人に合った正解」でしかない
自分に合った調味料は人それぞれのように、自分に合った生き方は人それぞれ
「〇〇すべき」ではなく、「〇〇したい」に注目すると自分に合う生き方が見つかるかも
という話をしました。
もし生きづらいと感じていることがあれば「〇〇したい」に注目してみてください。